母とドライブに行ってきました。

最近は、どこに行っても「道の駅」がありますね。新しい道の駅がそこかしこにできて、週末になれば広い駐車場にたくさんの車が停まっています。

今日ドライブしたのは、鉄道マニアにも人気の路線が通っているとても景色の美しい海沿いの道です。最初はただ走っているだけでも楽しかったのに、何十分と時間が経とだんだん飽きてきます。そんなとき、道沿いに道の駅を見つけると、心がパッと浮き立ちます。今日もそんなふうに道の駅に立ち寄りました。

その道の駅はずいぶん前に建てられたもので、廃れた感じが否めませんでした。お客さんが減り、間もなく閉業するという話もあるようです。「これじゃあ仕方ないね」と母と話しながら、ふと、人で溢れかえる道の駅が思い浮かび、感じたことがありました。

私たちの心は、自分を楽しませる娯楽を常に求め続けます。景色に飽きたら道の駅。この道の駅に飽きたら、別の道の駅。あらゆることがこの流れで繰り返されています。あまりに真剣に娯楽を追い求める心が、現実に大きな廃墟を残しているんだと。この道の駅は、私自身の心が形になって現れたものなんだと。

瞑想はよく、「退屈する時間」であると言われます。始めてしばらくは、じっとしていることが苦痛で仕方がないので「辛い退屈」と呼ばれます。でも、この辛い退屈を感じたとき、耐えられないからとすぐに瞑想クッションから立ち上がらずに練習を続けていくと、その先には「楽な退屈」があります。退屈と一緒にいられるようになるのです。娯楽の優先度が低くなる、自分を楽しませ続けなくてもよくなる、と言い換えてもいいかもしれません。この変化は、日常にも確実に現れてきます。

とはいえ、私は今も変わらず娯楽を求め続けています。一方で、少しずつ真剣さが和らぎ、余裕が出てきていることも確かです。真剣さとは、真剣であるこを自覚できていないことそのものかもしれません。瞑想で退屈さを避けようとしない、つまりそこにある空間を埋めようとしない力がついてくると、自分の必死さ、深刻さにふと気づけるようになります。その瞬間、再び空間が広がり、自分の深刻さを笑える余裕が出てきます。それは、「優しさ」であると思いませんか?